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怒りスッキリ掲示板

 投稿者:すっきり  投稿日:2014年10月11日(土)13時32分9秒 softbank126121088237.bbtec.net
返信・引用
  あなたの怒りイライラを掲示板でスッキリ晴らします

http://ing-spirit.s7.xrea.com/angobbs/

 
 

初めまして

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月23日(金)00時39分50秒 FL1-119-239-189-250.fko.mesh.ad.jp
返信・引用
  そうですか、岩堀先輩のご子息ですか。

先輩が結婚される時の引っ越しの手伝い。、
寿町に飲みに行った帰りに中町の交差点で
みんなで車座になって飲んで騒いだこと。
色んなことが思い出されます。

飲んで騒いだと言っても、志のある人間のみの集まりで、
ただの飲み騒ぎてはありませんよ。

豪傑を任じた先輩は時々失敗をやらかして林先生に雷を落とされました。
併し、間違ったと気が付いた時の先輩は凄かった。
直ちに下座して両手をついて「申し訳ありません!」と平伏されました。

私など「自分が正しい」と思いこみ、なかなか謝れなかったものですが、
この年になると先輩の道に対する気魄と無私の心がよく分かります。
いい方をお父さんに持たれましたね。

ホームページはまだできあがっていません。
本体は今準備中です。
それすら厖大で取りかかれません。
3000頁を超す「流れ」本体がスキャンは終えましたので、
これから校正にかかります。
私のような非才な人間に出来る努めではありませんが、
何とか終えたいと思っています。

 

初めまして

 投稿者:岩堀  投稿日:2012年 9月29日(土)01時48分59秒 p1244-ipbf2311hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  久しぶりに、亡き父の若かりし頃の写真を拝見しました。

今の私は写真の父よりも歳をとりましたが、林先生の教えを語っていた父を思い出します。

父を思い出しながら、幽顕塾のホームページをゆっくり読んでみようと思います。

ありがとうございました。
 

真文明を開拓す

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 8日(日)20時05分0秒 e0109-49-132-15-57.uqwimax.jp
返信・引用
  私が入塾した頃、先生は「神・人・自然は本来一体のものである」とよく言われた。「これがキャンセルし合っているのが西洋文明で、その西洋文明を基本とする現代文明では、人類世界が憧れている平和は終に実現されない。」と。
「生命の本質においては個即全である。全と個とは一体。生命の本質と日本の本質とは生命的に一体である。」「我即日本」とも言われた。
この個と全が一体であるという生命の本質が「真文明」の実態であり、この真文明をもって日本と世界を救わんとされたのが林正義である。
 

遅くなりました

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 6月13日(月)13時53分58秒 FLH1Acg233.fko.mesh.ad.jp
返信・引用
  お返事が遅くなり申し訳ございません。
久しぶりにこちらを見ましたら輝宗様の書き込みがあり驚きました。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
返事はメールにてさせていただきます。
 

失礼します

 投稿者:林 輝宗メール  投稿日:2011年 5月 7日(土)18時27分53秒 ttb2-ip185.user.xsp.fenics.jp
返信・引用
  林 正義の孫の輝宗です。現在は新潟で建設会社に勤務しています。正直なところ祖父について父からあまり聞くこともできずこのブログで少しずつ勉強しています。これからもよろしくお願いいたします。  

幽顕塾精神

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月23日(木)10時30分44秒 FLH1Acf192.fko.mesh.ad.jp
返信・引用
  林先生はよく「歴史に足跡を残すのは2流3流の人間のことで、第1流の人間は足跡を残さない」と言われた。人間界で本当に大事なのは目に見えない世界である。見える世界は見えない世界に支えられて存在している。幽顕塾が何を目指していたのか。それは幽顕塾という名前そのものがそのことを明示している。




幽顕塾精神

塾生一同互いに鞭撻し 一意専心大地自然に直参し
共に呼吸する生活体験を通して人生の根源を探求し
祖国日本の真生命に立脚し 以って終生祖国の生成発展に
寄与する志を確立せんことを期す
                 塾長  林 正義

http://akebonokikaku.web.fc2.com/

 

林先生の言葉-01-

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月22日(水)13時46分34秒 FLH1Acf192.fko.mesh.ad.jp
返信・引用
  「真人は自由にして至忠なり」

 真人は私心がなく、天地の生命に立脚し自然の法則のまま生きているので、生命が自由である如く自由で、帰一と分散と調和する日本の国體とも一致し国體そのものである。従って自由である。    (先生が書き残された解説)


____________________________________________________

 先生はよく「生命の本質は絶対にして自由」と言われた。天地自然も現象としては対立があるが本質的には対立はない。「個」と「全」が対立しないのが自然である。それが自然における「個」の本質である。これを先生は「超個」と言われた。この「超個」こそが日本人を救うものであり、その生命をピチピチと輝かすものである。そして更に言えば人類世界を対立のない世界へと導き救うのである。「個即全が生命の本質であり、その生命の本質と日本の本質は一体である。」と繰り返し繰り返し私達に教えられた所以はそこにある。

 先生が言われた「新文明を開拓す」は、この「個即全」をもって文明を立て直し、個人も国家も人類・世界も一切諸共に救済せんとするものである。

 この対立のない自由=絶対に生きるのが真人である。先生は又「生命においては帰一と拡散が同時である」と言われた。帰一とは己の本質に帰ること。拡散とは己の生命が輝くこと。即ち自己実現である。従って、真人の自由は現代社会の自由とは次元が違う。今の自由は単なる個の解放(拡散)を言うに過ぎない。それでは、自由と自由が争って自由は弱肉強食の範囲内のものとなる。個と全が、自と他が相争っては自己実現など存在しない。「帰一」があって対立の無いのが真の自由である。

 私達日本人にとって「自由」は日本への「帰一」と同時でなくてはならない。であればこそ私達の人生に意義がある。「日本への帰一」と「天皇への帰一」は異名同義であるが、それは祖国日本への「忠」であり、天皇への「忠」である。日本への帰一、日本人としての自分の自覚。これがあればこそ、この世に自分が生きている意味も何を為すべきかも明確に見える。そこに一人々々の人生の喜びがある。喜びは感謝であり、報恩である。それが「忠」である。この「真人は自由にして至忠なり」の言葉はその境地を言われたもの。

 また「本当の忠(=至忠)は忠であることを忘れ切ったところにある」と言われたが、これは忠と自分とが混然と一体になって「忠」という意識もないこだと教えられた。自分と忠が離れたところで、「忠だ、忠だ」と言っておると「忠」が重荷になる。それが戦前の日本の「忠」であった。とも言われた。だから敗戦して占領軍が来ると日本はそれまでの「忠」を放棄し、一転占領軍の示した「民主主義」「の信奉者となる。

 「忠」とは読んで字の如く、心の真ん中のことで、外そうとしても外れないのものである。何故ならそれが人間の真実であるからだ。それが放棄できたということは、それまでの「忠」が本物ではなかったのである。人間の真実から離れていたのである。今や「忠」そのものが存在せず、「君主正反対、民主主義万歳」など未だに真実も探求せず何やかや言っておる者がいるが、六十五年経過しても日本人の生命が一向に輝いていない事実は覆いようがない。戦前の「忠」を笑う者は戦後の「民主主義」をそれ以上に笑わねばならない。少なくとも戦前の「忠」は不十分ではあっても借り物ではない。戦後の「民主主義」は借り物どころか占領軍が押しつけたものだ。そこに真実などない。
 この占領軍憲法を「日本国憲法」或いは「平和憲法」と言う心が腐っている。汚れている。しかも平和憲法論者は今の社会が利欲に染まり人心が汚れていることに気が付きもしない。哀れなものである。民主主義の欠点も知らず批判もできない。欠点が解らぬと言うことは善導も出来ぬと言うことだ。今の日本は洗脳社会である。

 いずれ日本人は「忠」に帰る。百%帰る。日本人の魂がそうさせる。祖国を否定され、家族を壊され、醜き争いが絶えぬ日本。若者の醒めた目はそれを許さない。日本人としての心魂を否定した「自由」では日本人は本当の自分を実現できない。そう考える若者達が怒濤の如く戦後社会を崩壊させる日が来る。

 私達はそれを望まない。振り子の様に右から左へ、左から右へと流されてどうするのか。何処に人間の誠と知恵があるのか。私達は人間である。真実を自覚できる存在である。「自由」から入っても良いし、「忠」から入っても良い。「日本」から入っても良い。主体性を確立しよう。そうすれば我等日本人は日本人として行きることが天地に恥じず古今を貫く人間普遍の道を生き抜く道であるという社会を実現できる。人間と生まれた有り難さを感謝し、人間と生まれたことを有り難いと感謝する人生を獲得できる。人生の喜びはそこにある。真の平和はそこにある。

 「自由にして至忠」が日本の國軆である。日本人の生き様である。そこの所をじっくり探求しないと日本再建など出来るはずもない。

http://akebonokikaku.web.fc2.com/

 

上海東亜同文書院  第9章 中山優 08

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 7月 5日(月)09時23分24秒 FLH1Aee084.fko.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  上海東亜同文書院                  栗田尚弥著

 第9章中山優



   6 満州国特命全権公使

 中山は「浪人」という言葉を好んだ。なぜなら、「浪人の生活とは、社会と共に悲しみ、社会と共に喜ぶの生活だ。一世の指導者たるの積極的知能を有さざる迄も、憂世の悲惨に超然として自ら悦楽するに忍びない消極的社会意識は、少なくともその生活の根本に於て潜在してゐる(※124)」からである。しかし、「浪人の生活」は決して楽なものではなかった。中山は、「そりや苦労したよ。食物もなくてね、息子も、死んだくらいで…そりゃ、私は仕事をしとらんもんだからな(※125)」とも漏らしている。しかも石原莞爾の東亜連盟運動に関係したこともあって、彼の周囲には、東条英機(一九四一年十月首相に就任)が放った憲兵や特高警察の眼が常に光っていた(東条は東亜連盟論を「肇国の精神に反し皇国の主権を晦冥ならしむる国家連合論(※126)」として批判し、東亜連盟協会とその運動を弾圧した)。そんな中山に再登板の機会が巡ってくる。

 一九四五(昭和二十)年一月、満州国外交部次長・下村信禎は、部下の竹之内安巳を極秘裡呼び出し、中山の引き出しを相談した。下村と中山は下村の第五高等学校時代(熊本)以来の知り合いであり、下村は中山の中国観に深く敬服していた。竹之内によれば、この時下村は次のように語った。

  「中国問題を早急に解決しなければ日本の現状は到底救いがたい。この際、どうしても中
  国のよき理解者であり、中国の要人との親交が厚く、かつ、彼等に信頼される人物を派遣
  して中国側要路の人々と虚心坦懐に話し合って和平の曙光を見出だすほかはない。自分が
  かねてから白羽の矢をたてているのは中山優さんである。自分はすぐに東京にいって中山
  さんの出馬を懇請したいと思う(※127)」

 間もなく下村は東京に赴き、中山に再出馬を懇願した。中山は固辞しつづけたが、ついに下村の熱意に動かされ決意する。同年二月、中山は満州国駐華特命全権公使として、南京の土を踏む。

 特命全権公使としての中山は多忙であった。彼は中国各層要路の人物と接触、意志の疎通をはかり、日中関係打開の道を求めて縦横に飛び回った。中山が南京に赴任した頃、東京では首相・小磯国昭(一九四四年七月東条に代わって首相に就任)、情報局総裁・緒方竹虎らが中心となり、南京政府考試院副院長・繆斌を通しての対重慶(蒋介石)和平工作(繆斌工作)が進められていた。しかし、重光葵外相、杉山元陸相など反対者が多く、結局、繆斌工作は中断される(四月小磯内閣総辞職、原因は繆斌工作をめぐる閣内意見不一致にある)。同工作中止後、中山は上海で繆斌と接触、さらに「その背後の人」である蒋君輝(中山の旧友)や「蒋介石氏の命をうけて蒋君輝氏に日本との和平交渉の打診を依頼した戴笠将軍直系の陳長風ともあつた(※128)」。彼らは中山に「日本は必ず負ける。しかし、日本の負けは中国の勝を意味せぬ。英米が中国を重んずるのは東洋の勢力として日本が存在するが故にだ。日本亡き後の中国は戦捷国とはいつても名のみで、実は米ソの植民地にひとしきものになる。だから、せめて沖縄で日本が抵抗している間に、何とか日本と和平したいものだ。日本を無条件降伏させぬことは、中国のためでもある…(※129)」と語った。これを聞いた中山は独断で帰国、東久遷宮(敗戦直後組閣)、近衛文麿、阿南惟幾陸相の間を奔走、和平を説いた。

 このような中山は、現地日本軍にとって当然かんばしからぬ存在であった。ある時、中山は要談のため、支那総軍(司令部・南京)司令官・岡村寧次大将を訪問した。対談の途中中山は、「もし日本が負けたら」という言葉を口に出した。岡村はこの時とばかりに語気を強め、「絶対に日本は負けない、負けるとは何たる暴言か」と詰問した。中山は一歩も引かず、「若しという仮定のもとに話しているのだ」と反論、大変な激論に発展した(※130)。
一九四五年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、連合国に無条件降伏した。満州国は消滅し、またもや「浪人」となった中山優は南京から上海に移り、時折『孟子』の輪読会などを開きながら帰国の時を待った。翌四六年帰国。たった一つ持ち帰ったのは中華書局版の『四書集註』だけであった。同じ年、中山の母校・東亜同文書院は半世紀に及ぶ歴史の幕を閉じた。大陸にかけた青年たちの夢とともに…。





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(※124)中山優「池袋偶感」中山優選集刊行委員会編刊行『中山優選集』
(※125)中山優「建大教授交遊録」同書
(※126)内務省警保局『社会運動の状況』13(復刻版)三一書房・1973年
(※127)竹之内安巳「南京回想記」中山優選集刊行委員会編刊行『中山優選集』
(※128)中山優「緒方竹虎の横顔」同書
(※129)同右
(※130)竹之内安巳「南京回想記」中山優選集刊行委員会編刊行『中山優選集』

http://akebonokikaku.web.fc2.com/

 

上海東亜同文書院  第9章 中山優 07

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 7月 5日(月)08時48分56秒 FLH1Aee084.fko.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  上海東亜同文書院                  栗田尚弥著

 第9章中山優



    5 「王道ブロック」の夢と挫折(下)

 中山の「日満支ブロック」論、満州「独立」論の中には実は、大きな問題点・矛盾点がいくつか存在する。第一に、彼の満州「独立」論が、「原住民」の独立願望に対する共感から出たものではなく、「日支確執の癌を切断」するという目的のもとに出されたということである。中山は「日満支」三国の関係は平等・互恵であるとしたが、日中両国の都合(?)によって「建国」された満州国がはたして両国と平等な立場に立ちうるであろうか。

 第二に、日本の植民地であろうが、独立国であろうが、満州を中国固有の領土と捉える者にとっては、「独立」後も満州が「失地」であることには変わりはない、ということである。(中山もこの点は認識していたようである。たとえば彼は『支那』第二十七巻第六号[一九三六年六月]に発表した「文化的日本の創造」の中で、「満洲独立は、支那側に於て容易に釈然たり能はざる事情がある」と述べている。それゆえ中山は、日本は常に「明徳」の心を持って、満州「独立」の意味を中国側に説き続けることが必要だとした(※109)。また、中国側の「失地回復」論に対処するには、「満洲国の支那に対する地位を加奈陀の英国に対する位の程度に引き直す(※110)」ことも止むを得ない、と述べている [とすると、満州国は日中よりも一格下がることになり、日中とは平等ではなくなる]。)

 第三に、満州国が日中と平等の独立国家であるとするならば、当然、同国は主権国家である。主権国家である以上、満州国がいかなる政治体制を採るか、経済政策を実施するか、どのような外交関係を結ぶか、あるいは王道を国家理念とするかどうかを決めるのは満州国自身である。日本あるいは中国が、満州国のあり方に対し意見を述べ、説得することはできる。だが、指導することは明らかに内政干渉である。満州国が中山の望んだとおりに動くのならば問題はない。しかし、もし主権国家として独自の道を歩みはじめた時はどうするのか。

 第四に、中山は満州国の理念として王道を掲げたが、政策については具体的なことをほとんど語っていないということである。(もっとも王道論においては、もともと精神的なものが重視され、制度的なものは第二義的なものとされてきた。これが、道徳論としてはともかく、政治論として見た場合の王道論の最大の弱点[特に近現代において]であり、王道の徒・中山に具体的政策論を聞くことは些か酷かもしれない。)
 中山の諸論策・論文の中にこれらの問題に対する解答(回答)は存在しない。だが、中山はこの難問に答える必要はなかった。満州国は独立国家としての体面を全く喪失し、日本、特に関東軍の傀儡国家に堕していくからである。

 一九三二(昭和七)年八月の政府機関の人事異動を機に、満州国国家機構の要所は関東軍軍人と日系官吏によって掌握され、その上には「在満大使、関東庁長官を三位一体で兼ねた関東軍司令官」が「君臨(※111)」した。宮内府の実権も日本人に握られ、関東軍参謀を兼ねる宮内府御用掛・吉岡安直は、「皇帝なんて、可哀想なもんさ。身寄りもなし、後継ぎもなし、わしが世話をしてやらにゃ、どうにもなりゃせん。うん、まあ早い話、わしの子供のようなものさ(※112)」と豪語した。皇帝薄儀は完全に関東軍の傀儡と化したのである。一九四〇(昭和十五)年七月、薄儀は関東軍の圧力により、「国本奠定の詔書」を発布した。これは、天皇家の祭神である天照大神を愛新覚羅家の祖先として永遠に祭るというものであった。愛新覚羅家と満族の民族としての歴史的アイデンティティーは完全に否定されたのである。

 日本人以外の満州「国民」は、圧政の犠牲となった。「内地を食いつめた一旗組と土地無料獲得を期待した(日本人の)農業移民によって(※113)」先住農民は、その土地を追われた。多くの住民が鉱山や工場の強制労働に駆り出され、牛馬のように働かされ死んだ。共産ゲリラ掃討に名を借りた、日本軍による住民の大量虐殺も満州各地で行われた。満族や漢族が「汗を流して作った小麦粉は」彼らの口に入らずに、「全部日本に行ってしま」った(※114)。「日本人の学校は設備が立派で、暖房もよくきき、床も窓ガラスもピカピカに磨いてあった」が、「中国人の学校は、あれはてた寺か、だれかが寄付した倒壊寸前の家だった(※115)」。満州国が「楽園として呼べるとしたら、それは日本人のためだけに存在(※116)」したのである。そして当初は「建国」に好意的であった人々の心も次第に満州国から離反していった。たとえば先述の「満州皇帝の忠実な臣民」夏瑞堂は、「薄儀が日本を『友邦』から『兄邦』に呼びかえ、さらに『親邦』と呼ぶようになったのを見て」、「あの間抜けの臆病者」と薄儀を罵るようになった(※117)。

 中山は満州国のこの現実にいたく失望した。建国大学赴任以前から中山は、満州在住日本人の倣慢な態度が気掛かりであった。一九三五年頃の話である。満州から帰国した「月給とり二人」が中山を訪問した。彼らは、満州について中山に報告し、「日本人と漢民族とは、道徳的素質に於て、対蹠的な民族であつて、漢民族に対するには圧力以外にはない」と語った。これを聞き咎めた中山は、「左様した考の人間が満洲に月給とりにウヨウヨしてゐるからこそ、満洲国当局の気概が低調になつてゆくのだ」と二人を嗜めた(※118)。その中山が現実に見たものは、想像を絶した満州の実態であった。戦後、中山は満州国の実態につい七、「満洲国は傀儡国といはれた。左様いはれても弁解の余地がない程、後では堕落した」「苦しまぎれの搾取が現地人の心を引き離した(※119)」、と言い切っている。

 満州の現実に失望したのは、中山だけではなかった。中山が「誠の人」と評した、満州国の設計者・石原莞爾も同様であった。なるほど石原は、「リアリスチックな植民地統治」論者であったかもしれないが、満州統治にあたっては、「(他民族に)日本を信頼せしめ日本人に限りない愛着を持たしめる(※120)」ことが必要と考えていた。しかし、関東軍参謀副長として満州に帰ってきた(一九三五年、石原は参謀本部作戦課長として一旦帰国している)彼の眼に映じたものは、名ばかりの「王道楽土」であった。石原は満州国の蘇生を計ろうとする。建国大学を創り、中山を教授として招聘したのはその一環だったのかもしれない。しかし、石原は失敗する。満州国に対する「内面指導」(石原はこれを厳しく批判した)の中心人物である東条英機(一九三七年三月~三八年五月・関東軍参謀長、三八年五月~十二月・陸軍次官)とことごとく対立したためである。一九三八年十二月、石原は独断で辞表を提出、満州を去り、舞鶴要塞司令官という官職に補せられる。それから約四年後、中山は建国大学教授の職を辞し、再び野に下る。後年、彼は建国大学について語っている。「建国大学の教授は主として日本から満洲を見て、向こうから満洲を見る人が少なかった(※121)」と。(中山をはじめ、東亜同文書院OBで満州国に関わった者は多い。彼らの多くは、「言葉ができる人はみな、現地人に同化されている」「現地人の肩を
持ちすぎる(※122)」として、関東軍軍人やその息のかかった日系官吏の批判・中傷にさらされた。たとえば、猜疑心の強い皇帝・薄儀が最も信頼した日本人である林出賢次郎[書院第二期生、第六章参照]は、ある関東軍参謀から「皇帝が天皇陛下よりも大事なのか(※123)」と罵倒され、ついには関東軍の策略により宮内府行走[皇帝秘書官]の職を追われた。)




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(※108)中山優「文化的日本の創造」『支那』第27巻第6号
(※109)中山優「東亜連盟への途」『支那』第31巻第5号
(※110)中山優「現代支那の国際観念」 『支那』第24巻第12号
(※111)秦郁彦『軍ファシズム運動史』
(※112)愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』新潮文庫・1992年
(※113)秦郁彦『軍ファシズム運動史』
(※114)愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』
(※115)ユン・チアン『ワイルド・スワン』 上
(※116)同書
(※117)同書
(※118)中山優「日本の根本的錯誤」中山優選集刊行委員会編刊行『中山優選集』
(※119)中山優「満洲国論」同書
(※120)石原莞爾「満洲建国前夜の心境」橋川文三編『昭和思想集』Ⅱ
(※121)中山優「建大教授交遊録」中山優選集刊行委員会編刊行『中山優選集』
(※122)石田達系雄『満洲国建国物語』大湊書房・1978年
(※123)日野晃「尋賢 林出賢次郎の『厳秘会見録』」記念誌編集委員会『海域に時は流れて』

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